斉藤惇顧問インタビュー

様々な業界で活躍されている熊大附属中学出身OBOGをご紹介していくコーナーです! 第5回目は、熊大附属中東京同窓会の斉藤惇顧問(S30卒)です。今年の東京同窓会にもご登壇されます。野村證券株式会社代表取締役副社長、株式会社産業再生機構の代表取締役社長、東京証券取引所社長、株式会社日本取引所グループ取締役兼代表執行役グループCEOなどを歴任、現在KKRジャパンの会長、ビジネス・ブレークスルー大学大学院経営学研究科教授を務められています。 今春、斉藤顧問は「旭日大綬章」を受章されました。叙勲でいただかれたお祝い金は全て熊本城再建のために、熊本市の口座にご寄付されたそうです。日本のリーダーとしてご活躍の斉藤顧問に学生時代のお話、経営者としてのお話など貴重なお話をお届けします。

斉藤 惇(さいとうあつし) 

KKRジャパン会長。済々黌高校、慶應義塾大学商学部卒業。野村證券株式会社代表取締役副社長、住友ライフ・インベストメント株式会社の代表取締役社長・会長等を歴任した後、2003年4月より2007年5月まで株式会社産業再生機構の代表取締役社長として日本の不良債権問題解決や企業の事業再生に貢献。2007年6月より東京証券取引所の代表取締役社長、同年8月からは株式会社東京証券取引所グループの取締役兼代表執行役社長を兼任し、東京証券取引所と大阪証券取引所の統合を指揮。2013年1月から2015年6月まで株式会社日本取引所グループの取締役兼代表執行役グループCEOとして日本の株式市場の発展に尽力。2015年8月より現職。2016年財界賞受賞、春の叙勲で旭日大綬章を受章。

平成28年春の叙勲にて旭日大綬章の受章、おめでとうございます。
斉藤ありがとうございます。この旭日大綬章は熊本県内で3人目、沢田一精元熊本県知事以来だそうです。熊大附属中学校をはじめ熊本の方にも大変お世話になりました。
しかしこの勲章は、長年一緒に働いてきた多くの人たちの代表として、私がいただいたと思っています。というのも普通この勲章は、入社以来ずっと同じ会社で働き従事されてきた財界人が、業を成したということでいただくケースが多い。それに比して僕の場合は野村證券で34年勤務後は、5つも会社を変わってきた。その分、いろいろな所でいろいろな人と一緒に働いてきたから、「代表としていただいた」という気持ちなのです。

斉藤先輩の中学時代はどんなお子さんでしたか?
斉藤ガリガリ勉強するというより、親父の部屋にいっぱいあった小説等を片っ端から読んでいたので、相当生意気な中学生だったと思います(笑)。親ともほとんど口をきかなかったし。My Wayです。僕たちの担任は、丸木政臣先生といって国語、社会を教えていた先生でね。社会科では「世界」や「中央公論」を教科書にして平和教育を徹底的に教えておられましたので、私自身も影響を受けて一時期「平和運動」に走ったことがあります。その時は親が物凄く心配してね。丸木先生は、僕たちが附属中学校を卒業すると同時に、東京の和光学園に移られ、最後には理事長にまでなられました。残念ながら数年前に亡くなられましたが、僕は先生が亡くなられるまで、物凄く可愛がっていただきました。
ただ、どれだけ先生から左傾の教育を受けても、それには決して染まらなかった。丸木先生とは思想が違い、賛成できない部分がたくさんありましたから。しかし、強烈な想いや生き様というのは、心に強く訴えるものがあります。特に、先生の平和を希求するお気持ち、軍国主義にあらがう姿勢には、僕も強く共感しました。 丸木先生は今の熊大教育学部に通われていた頃、学徒動員で兵隊になられたそうですが、沖縄に出陣するために鹿児島の港まで行ったところで終戦になり、結局沖縄には行かずじまいだった。しかし、同級生の多くは沖縄に行き、皆戦死したというのです。だからこそ先生は、軍国主義を徹底的に恨んでいた。「絶対に戦争なんか許さない」と、死ぬまで平和運動をされておられたのです。そんな話を聞いていましたから、思想的にはどんなに相容れなくても、軍国主義を許さないという気持ちは、僕の中にも色濃く根付いているのです。

斉藤先輩が附属中学に入られたきっかけをお教えいただけますか
斉藤実は当時、附属中学校は内坪井にあったのですが、その目の前に親父が勤めていた教育庁の官舎があり、そこに住んでいたからというだけです(笑)。ただ、附属中学校には3年間、しっかり通いましたよ。というのも、親父が先生だったこともあって転勤ばかりでね。僕も同じ小学校に2年以上いたことがなく、6年間で5,6回は転校しました。松橋に始まり天草本渡、人吉、隈府、そして熊本市。附属中学校に入ってようやく落ち着いたというわけです。

中学時代、夢中になっていたことはありましたか?
斉藤小学4年生の時に始めた馬術です。隈府に住んでいた時に親父が校長として勤めていた菊池農業学校に馬術の先生がいらした、というのがきっかけ。その後、熊本市に引っ越してからも、熊本大学医学部にも馬術部があったので、中学2年生まで熊大生と一緒に、熊本城の中で馬を走らせていました。もちろん厩舎の掃除や馬の餌やりなどもしていました。走った後に馬を白川に入れに行くのが、ことのほか楽しくてね。思えば、ひねくれた中学生でした(笑)。今は馬を含め、乗り物は全く乗りません。馬は力が強くて怖くてもう乗れないですし、人の心を読みますから存外難しいのです。

同級生の皆さんとは、今でも会われますか?
斉藤我々の頃は3年間クラス替えもなく担任も同じでしたから、仲間同士の絆は強かった。お互いの家をよく行き来したり、先生も仲間の一員みたいになって金峰山に登ったりしました。卒業後もよく集まっていましたし、丸木先生がご存命中は、東京でもよく集まっていました。私としては、附属中学校の仲間が一番頻繁に会っていたといってもいいくらいです。今は他のクラスの連中ともよく会うようになっており、当時相当悪かったヤツも今じゃ好々爺になっていたりする。そんなヤツに、「あの頃、お前は悪かったな〜」なんてからかったりする。そんな関係が面白いのです。

附属中で学んだことが経営者として役立っていることはありますか?
斉藤私自身は附属中学校の後、済々黌高校、慶應大学と進んだのですが、どこも変わらず大きな影響を受けたと思っています。というのも、組織を指揮したりリーダーシップをとったりする人間は危機に対してチャレンジでき、パチーンと跳ね返し征服するぐらいのマインドセットを持った人間でないとダメ。それには若い頃、特に小中学生時代に、強烈な経験や物凄い訓練を受ける必要があると思うのです。
僕らの子ども時代は、シベリア帰りの元兵隊という先生も多くて、よく殴られました。今なら問題かもしれんし、殴るのはいいとは言わないけれども、そうすることで僕らにプレッシャーをかけていた。プレッシャーをかけて、そのうえで「お前、どうやって生きていくのだ?」と、解決策を問うていたのです。そんな経験を繰り返すことで、強いマインドセットは育くまれていったのだと思います。
やはりマインドセットが強くないと、厳しいビジネスの世界でも戦うのは難しいですからね。僕もそうして、馬のように地べたを這ってきたので、どういう環境でも食ってみせるぞという気概を持つことができました。

斉藤先輩が今、特に意識されていること、信条とされていることは何でしょうか?
斉藤「自らは強く、人には優しく」です。いろいろ経験してたどり着いた信念ですが、アメリカでの生活経験が、もっとも強く影響しています。アメリカでは、まず男は絶対に筋力でも経済力でも強くなきゃいかん。強い人間というのは弱い人間を守らなければならないので優しくなる、という考えなのです。ですから男性は、自ら鍛錬の場を求めてチャレンジしていくのです。
アメリカで人材採用をしていると、ほとんどの学生が何らかのスポーツをしている。それからアルバイトをしていて、奨学金ももらっている。ハーバードの学生でも、親からお金をもらって学校に行っているという学生は、ほとんど見たことがない。アメリカの場合は、企業や自治体による様々な奨学金制度があるので、健康で頑張れば誰でもなにがしかの奨学金をもらうことができる。しかし、そのためには強くなきゃいけないのです。 そうした世界を見てきたから、僕自身も「まず自分が強くならないといかん」と思うようになりましたし、どんなに厳しい環境下にあっても、精神的にも肉体的にも耐えられるよう、常にトレーニングしなければいけないと思うようになりました。
僕は今も、「死ぬような思いで崖の淵から飛び降りられるか?」とよく考えます。僕が小学4年生の時、シベリアから帰ってきた親父の教え子たちが、シベリアがどのような所だったか話をしてくれました。それはそれは酷い所で、食べるものもなく、仲間が次々と死んでいったというのです。その時に聞いた話や読んだ本の内容が、僕の体に物凄く入っている。だから今でも、そういう環境に耐える人間になっていないといけないと思うのです。時代がそういうものをインプットしたと思うので、それは決してHappyではなかったかもしれませんが、そのようなことを学んだがゆえに、結果的に今は、Happyなのです。

今回の熊本地震について少しお気持ちをお聞かせください。
斉藤このたび被災されました皆様にはお見舞い申し上げます。と同時に、なんとか元気を出して、復興復帰にむけてがんばっていただきたく思っています。 自分の地元で起きると全く思っていなかったので唖然として驚きました。一番悲しかったのはやはり熊本城で、テレビでちょうど熊本城が煙を巻きながら揺れているシーンが映りましてね。小学生の頃から熊本城の中を走り回っていましたから正直悲しかったです。
あれだけのことがあったのですから、「ダメだ」と思ってしまうのはしょうがないですが、気は持ちようと言います。「何とかまた立ち直るぞ」という気持ちでいていただきたいですし、我々も出来る限りの事をしなきゃいけないなと思っています。実際、私も震災後には熊本に帰り、約600億円の資金が必要な熊本城の再建支援運動に、木村君(S38卒・木村康氏、東京同窓会会長)、細川元熊本県知事らと共に加わっています。
現地に行きますと、「蒲島さんはものすごくよくやった」と県知事の評判がすこぶるいい。確かに、9月に僕の受章祝賀会に彼は来てくださいましたが、「震災以来、ずっと作業服を毎日着ていましたので、今回の祝賀会で初めて背広を着ました。」とおっしゃっていたくらいでした。知事は農業が専門ですので土地勘がありますし、ビジョンをちゃんとお持ちですから、短期に再生するのではなく、中長期目線で将来の地震に備えて耐震性を強くしようという計画を、着々と進めておられるようです。

現役附中生とOBOGへのメッセージをお願いします。
斉藤若者は、お金を払ってでも苦しいことに飛び込んでいってほしい。他人に強制された苦しさではなく、自分で選んだ苦しさに。肉体的にも精神的にも。そして、「きついなぁ、でもチャレンジしてみよう」となってほしいですね。 
今の時代、どの業界も世界と戦わなければなりません。しかし、International Competitionというのはリアリティの戦いで、内容よりも結果だ。ただただ強いやつ、知恵のあるやつが勝つ世界なのです。だから附属中学生よ、最高の環境にいるのだから「不平を言うな、甘えるな」ですな! 手は動く、足は動くってだけでも凄いじゃないですか。日本は地球上で最高の国ですよ。ポジティブに物事を考えていってほしいです。長いものに巻かれろではいけません。自分の意見はちゃんと持たないといけないし、上が言うからその通りなんて、そんなのは全くないです。自分が人間として納得できる前向きな生き方を探さないといけないと思います。

卒業生の中には若手経営者も多くいますので、彼らにもメッセージをお願いします。
斉藤経営者については「常に変化しろ」と言いたいですね。過去、現在の成功なんかにこだわったらもうおしまい。経営者自らどんどん破壊してもらいたいです。僕はとにかく、その場その場で必死に考え、必死に生きてきた。必死に生き、必死に考えてきた結果が、たまたま産業再生機構での大型企業再建とか、東証でのコーポレートガバナンス・コードの導入とか、東証と大証の合併とかになったのです。経営者にとって「色気」というのが一番いけない。「色気」があると、怖くなったり悪いことをしたりしますからね。
まあ、偉そうに言ってきましたが、今までに人生でいろいろなことをやりましてね。結局「無」であり、「0(ゼロ)」、「◯(マル)」だと。どこかのお寺に行けば「◯」が書いてありますが「無」なんです。全く人は一人で勝手に裸で生まれてきて、一人で死んでいくのですよ。そこには「俺は偉かった」「俺は勲章を貰った」とか、何の関係もない。でかい車に乗っているとか、でかい家を建てたとか、そんなものは”So what’s?”ですな。「さようなら」って言って逝けばいいのです。どうせ灰になりますので、あまり怖いものがない。「欲」があるから怖いのです。とにかく「無・0(ゼロ)」。自分はスッポンポンで生きていくだけです。

さらに上場を目指している経営者へのメッセージもお願いできますでしょうか?
斉藤お金を儲けたいと思うことはいい。ただ、上場すると会社は公的なものになり、「私のモノ」でなくなる、という意識だけはしっかり持っていてほしいです。
会社というのは、作った以上は真剣にお金儲けをしたらいい。お金があって初めて分配論が出ます。分配論が先にあったらお金はありません。会社を作られる方は大いにお金儲けをして欲しいし、真剣に真正面から利益を出しなさいと。その過程の中で税金も納め、人も採用し、働く人に給料を払ったりしながら経営していく。そうすることで次第に組織は公的な存在になっていき、経営者の心の中には「そんな組織を自分が背負っているんだ」という気持ちが芽生え、それがやがて誇りになっていくのです。

公開日:2016.10.13

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